Fre00244 アダムにリンゴを食わせたのは誰だ!?

#0000 sci1598  8811172359


 エバじゃないですよ。彼女が亭主にすすめたのは、「善悪を知る木」の実(創
世記第2章17節)です。だいたい、中東(エデンの園はこの辺りにあったらし
い)で、リンゴの実がなるものかしら?
 ところが、アダムがリンゴを食べた時、神にみつかるのを恐れ慌てて喉にひっ
かけてしまったとか。それで喉仏のことを英語では  Adam s apple  と言うのだ
そうです。今朝の朝刊4面のマンガも「リンゴ」になっていましたね。
 どこで、こうなってしまったのでしょう。聖書を研究している方教えてくださ
い。appleには別の意味があるのでしょうか。ほかの国では、喉仏のことを
何と言うのでしょうか。外国語に堪能な方もお願いします。
                                             カインの末裔< 猫 男 >




#0001 reader   8811232201


   < 猫 男 >さんへ
 ご質問の件についてお答えさせていただきます。
 まず,「善悪を知る木」がどうして「リンゴ」になってしまったのか,と
いう点ですが,ちょうど良い資料がありましたのでアップします。次の関連
発言に載せておきます。ご覧下さい。
                     By “Sheep”




#0002 reader   8811232202


       『だれがリンゴだと言ったのですか』

 一般に“リンゴ”と訳されているヘブライ語“タップアハ”は,聖書中に何
度か出てきます。しかし,その語は「善悪の知識の木」について記述する際に
は用いられていません。(創世記2章9,17節;3章6節) では,禁じら
れた木の実がリンゴだったとする伝統的な考えはどこからきたのでしょうか。
 N・H・モルデンクの「聖書の植物」という本によると,それは「中世およ
びルネサンス期の画家がそのように描いたからに違いない」ということです。
例えば,現在ハーグ美術館にあるピーター・ポール・ルーベンス(1577-1640) 
の有名な絵「楽園」について,モルデンクは次のように述べています。「蛇が
巻きついている善悪の知識の木の枝の実は,たしかにリンゴに見える。この絵
も,聖書に記されている植物はリンゴであるという誤解を今日のように広めた
原因の一つであろう」。
 ドイツの宮廷画家,ルーカス・クラナハ・エルダー(1472-1553) の絵「アダ
ムとエバ」にもリンゴが描かれていますが,それに関してモルデンクは,ルネ
サンスの画家は「選ぶ際に自分たちの想像力を働かせる権利を保持することを
好んだ」と注解しています。当時の他の画家,例えばティントレットや,ティ
ツィアーノは,同じ題材で描く際に同じことをしました。

 しかし,その考えを最初に書き表した人の一人は,英国の有名な詩人ジョン
・ミルトンでしょう。その著書「失楽園」(1667)の中でミルトンは, 蛇がエバ
を誘惑するくだりにこう書いています。
    「ある日,私は,野原をさまよっていた時,
   はるか遠くに一本の見事な木が,
   赤くまた金色に輝く,彩りの非常に美しい実を
   枝もたわわにつけているのを見つけ,
   その木にはい上がりました。……
   その美しいリンゴを味わいたいという強い欲望にかられた私は,
   その欲望を満たそうと心に決め,ためらう気持ちを捨てました。
   同時に,飢えと渇きがその魅惑的な実の香りに刺激され,
   私の心を圧倒し,駆り立てました」

 このように,神の言葉,聖書ではなく,画家や詩人の空想的な,しかも間違っ
た考えがもとになって,キリスト教世界の最も人気のある神話の一つが出来上
がったのです。その実とは何でしたか。それについては聖書は何も述べていま
せん。要点は,その実ではなく,人間の不従順ということにあったからです。
   「ローマ人への手紙5章12節」
       一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入
      り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえに
      すべての人に広がった
(以上,ものみの塔聖書冊子協会「目ざめよ!」誌 1985年6月8日号)




#0003 sci1003  8811240451

<猫男>さんと同じく,私もリンゴのことは不思議に思っていましたが,ははあ,
Sheepさん,そのネタ元は『失楽園』なんですか.なーるほど.
あの話(詩というのか?)は,私みたいのが読んでもムチャクチャ面白かったです
から(読んだことない人はぜひどうぞ,堕天使のルシフェルがすごぉくカッコイイ
んですから),きっと当時もおおぜいの人が読んだのでしょうね.だから,いつの
まにか,リンゴが常識になったのでしょう.
いまでいうと,池波正太郎の小説が元になって,「江戸時代には金で殺しを請け負
う〈仕掛人〉と呼ばれる職業があった」と信じちゃう人がでてくるようなものです
かしらん.
それにしても,ものみの塔の例の小冊子も,読んでみればなにかと役にたちそうで
すね.そんなのいらないよっ,と邪険にことわるべきではないのかなあ.それに,
あのエホバの証人の人たちって,みんな性格がいい人に見えるんですよね.あれで,
しつこく「集会へ来ませんか」って言わなければ,お友だちになってもいいとさえ
思わなくもなくもない...やっぱり思わないけど.
RUKAS
 

#0004 sci1598  8811272325

 うーん、やはり何でも聞いてみるものですね。そうですか、「目ざめよ!」に
載っていましたか。Sheepさん(おもわず神父さんと言いそうになる)、あ
りがとうございました。これで安心してリンゴが食べられます。
 でも、聖書を逆さまに読む猫男としては、人間の不従順よりもその実が今もど
こかに生えていないかとか、アダムは何故「命の木」からも取って食べなかった
のか(そうすれば「永久に生きるかも知れない」創世記3章22節)、などと信
仰とは掛け離れたことに思いを馳せてしまうのです。これがまた面白くてやめら
れない。
 冗談はさておき、聖書ほど思い違いされている本も少ないのではないでしょう
か。それだけ色々な立場の人に読まれている、と言うことでしょうね。この「◯
◯に××したのは誰だ!?」は、続けたいような気もします。
 私の仕事場にも時々、エホバの証人の人がみえます。聖書の話は嫌いではない
ので暇な時には相手をするのですが、集会への誘いは丁重にお断りしています。
RUKAS さんの言われるように、いい人達だと私も思います(あっ、そろそろまた
400cc 献血に行かなくっちゃ)。「失楽園」買ってきます。うー、読まない本が
また一冊増えてしまう(バイオリズムの本、結局最後まで読まなかったし)。
 ここまで書いて世界大百科事典(平凡社)で「りんご」を調べたら、[リンゴ
をめぐる伝説・民俗]の項に「リンゴは古くから親しまれていたくだもので、有
史以前から栽培されていたといわれる。しかし <アップル> apple という言葉
はもとはくだものの総称であったと言われている。」と書いてあるのを見付けて
しまいました。とすると、“Adam's apple" は間違いではないのかな...。
 ほかにも知っている方がいらしたら、教えてくださいね。
              マッチ・ポンプになってしまった、迷える小猫< 猫 男 >
 

#0005 reader   8811282238

   <猫男>さん,そして RUKASさんへ
                    こんばんは。Sheepです。
  わたしたちのことを好意的に見てくださって, ありがとうございます。また, 
 このような場で聖書のことを語り合う機会が持てたことを,本当に嬉しくおもい
 ます。確かに<猫男>さんのおっしゃるとおり,聖書ほど人々に誤解されている
 本もないでしょう。「アダムのリンゴ」という表現も,そのことを示す一つの例
 かもしれません。そういう意味で,今回この基調を開いて,聖書の誤解の一つを
 正すチャンスを与えてくださった<猫男>さんと,場を提供してくださった朝日
 新聞の方に改めて感謝いたします。
  <猫男>さん,是非「○○に××したのは誰だ?」のシリーズ(?)を続けて
 いただけないでしょうか? 聖書に関して,皆さんがどんな疑問を持っていらっ
 しゃるのか,私としては大変興味深いところです。よろしくお願いします。

  最後に,『サイエンスネット』にふさわしい聖書の話をひとつ・・・。

    ***********《 水の循環 》***********
  人は昔から,河川が流れ込んでも海や大洋の深さが変わらないことに気付いて
 いました。地球が球体であることが知られるようになるまで,これは,流れ込む
 のと同じ量の水が地の端からこぼれ出ているためである,と信じた人もいました。
 その後,太陽が毎秒数十億リットルもの水を水蒸気のかたちで海から“汲み上げ
 ている”ことが知られるようになりました。この仕組みによって雲が作り出され,
 それが風によって陸地の上空に運ばれ,そこで水分が雨や雪となって地上に降り
 ます。次いでその水は川に流れ込み,再び海に注ぎ込まれます。この驚嘆すべき
 循環について,古代には一般的に知られていなかったにもかかわらず,聖書の中
 でははっきりと述べられていました。
   「川はすべて海に注ぐが,海はいまだ満ちてはいない。
            水は川が始まった所に戻り,再びそれを繰り返す」
                         ─伝道の書 1章7節─
 (以上,『生命─どのようにして存在するようになったか……』1985年 201頁) 
 

#0006 sci1003  8811290327

げげっ,Sheepさんってものみの塔の関係者の方でしたか,なんか
前のレスポンスで失礼な物言いをしてしまい,ひや汗をかいています.
どっ,どうもすいません...
聖書の話,期待しておりますので,どんどん紹介して我々の蒙を開いて
くださいね.<猫男>さんも負けずにがんばって問題提起してね.私は
山寺の和尚さんの孫でキリスト教には明るくないんです(とかいって,
仏教には明るいというわけでもない.ああなさけない.)
RUKAS


#0007 sci1598  8812042222

  Sheepさんがものみの塔の方とは思いませんでした。私も「げげっ」です。3
年も前の「目ざめよ!」(これは機関誌ですね)が登場したところで、「関係の方か
な」と考えるほうが自然だったのですね。でも私自身、「聖書はほんとうに神のこと
ばですか」(ものみの塔聖書冊子協会発行)を興味本位で単なる資料として持ってい
るので、「ご同類に違いない」と思い込んでしまいました(ごめんなさい)。ちなみ
にこの本は、入手した当時のいきさつを思い出せないほど古いものです。
  昔のことですが、ある宗教の勧誘を受けたことがあります。いわく、「だまされた
と思って3カ月だけやってみないか、良いことがなければやめればいい」「毒の入っ
ているダンゴ(他宗教)を食べようとしている人からそれを取りあげる(強引な勧誘)
のは当然」...などなど。急速に信者を増やしている頃でしたからなりふり構わな
かったのでしょうが、宗教の教え以前の問題でいやになってしまったのをおぼえてい
ます。
  私がエホバの証人の人たちに好感を持つのは、内に秘めた信仰心を他人に対して押
し付けようとする態度をみせないからです。人間性の問題だと言ってしまえばそれま
でですが、これは大事なことだと思います。
  話を聖書に戻しましょう。一般に科学と宗教は相容れないものと考えられがちです
が、私はそのようなことはないと思います。非科学的なことの筆頭にあげられるマリ
ヤの処女受胎でさえ、マウスを使っての処女生殖に成功したことにより理論的に可能
(1981年11月19日朝日新聞)となりました。私たちの知識が聖書の記述にまだ追いつ
いていないだけのことではないでしょうか。けれども、それだからと言って聖書の教
えを鵜呑みにすることは危険なことです。「アダムのリンゴ」の例が示すように、実
際には書かれていないことを書いてあると信じ込む例の何と多いことでしょう。
  安息日はいつから日曜日になったのか、クリスマスは本当にキリストの誕生日なの
か、死んだら天国に行けるのか...。聖書だけを読んでいては解決しない問題もた
くさんあります。だからこそ広い視野を持つことが必要なのだと思うのです。
  軽い気持ちで書き込んだ基調発言でしたが意外としんどいことになりそうです。こ
れを書くのに一日かかってしまいました。Sheepさん、よろしかったら輸血拒否
についてのご意見、お聞かせください。以前はそのようなことはなかったはずですが。
そして献血をする側に対してのお考えも。(個人としてでも、組織としてでも構いま
せん)
                                      日曜学校に10年間通った<  猫  男  > 
 

#0008 reader   8812111904

  エホバの証人というと多くの人は『輸血拒否』を思い浮かべるようですね。逆
 に言えば,誰かが輸血を拒否したというと「またエホバの証人か」となります。
 それほど私たちの立場が皆さんから見て特異なものであるということなのでしょ
 う。
  最初にご理解いただきたいのは,生命に対する私たちの見方です。エホバの証
 人は生命を大切にし,それを極めて尊重すべきものとみなしています。私たちが
 たばこをのまず,惑溺性の麻薬を用いず,堕胎などを求めないのも,一つにはそ
 うした理由によります。私たちは,生命が神聖なもの,自らのためにも自らの子
 供たちのためにも維持し保護すべきものであることを,聖書から学び知っていま
 す。
  そこで,皆さんはつぎのような疑問を持たれることでしょう。
  『では,なぜエホバの証人は輸血に異議を唱えるのか。死に直面してさえ守ろ
 うとするその信念にはそれなりに道理に即した理由があるのか』
  率直に言うと,エホバの証人の立場は何よりも信教上のものです。聖書の述べ
 ることに根ざした立場なのです。
  このことについてその妥当性を問う人も多いことでしょう。血の使用を支持し,
 血液銀行を設けたり,供血を促したりしている教会組織も多くあるからです。
 そこで,当然問われるのは次の点でしょう。すなわち,『人が血を体内に取り入
 れることについて聖書は何と述べているか』という点です。
 聖書の記録に示される点ですが,人類死の初期に,創造者すなわち生命の授与
 者は血の問題に関する見解を表明されました。全地球的な洪水のすぐ後,動物の
 肉を食べることを人間に初めて許した時,神はノアとその家族にこう命じました。
 「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の
 場合のように,わたしはそれをすべてあなた方に与える。ただし,その魂すなわ
 ちその血をともなう肉は食べてはならない」─創世記9章3,4節
  まず初めに,創造者は,人類が新たな出発をするこの時に当たって,食物に関
 する規定を設けておられました。しかし,神がここで示された通り,食物の為に
 動物を殺すことには,単に食物を得る以上の事が関係していました。それは,生
 き物の血がその生き物の生命もしくは魂を表わしていたからです。それで,いく
 つかの聖書翻訳は上記の創世記9章4節を次のように訳しています。「しかし肉
 を,その命である血のままに食べてはならない」─日本聖書協会口語訳。また,
 米国標準改定訳,モファット訳。
  したがって,神のこの規定は,ちょうど医師が患者に塩分や脂肪分を控えるこ
 とを勧める場合のような,単なる食事上の制限ではありませんでした。創造者は
 極めて重要な道徳上の原則を血と結び付けたのです。普通に流れ出る血をすべて
 注ぎ出すことによって,ノアとその子孫は,生命が創造者からのものでありまた
 創造者に依存するものであるという認識を表明することになりました。
  しかし,この要求は『血を食べる』ことに関するものであって,輸血を受ける
 ことには当てはまらない,と言う方もおられることでしょう。では,クリスチャ
 ンに与えられた次の命令を考慮してください。「聖霊と私達とは,次の必要な事
 柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからで
 す。すなわち,偶像に犠牲としてささげられたものと血と締め殺されたものと婬
 行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた
 方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。─使徒たちの活動 15章
 28,29節
  クリスチャンは『血を避けているように』という命令に注意してください。血
 を口に取り入れることと血管内に取り入れることとに区別を許すようなことは何
 も述べられていません。また,実際のところ,その両者に基本的な違いがあるで
 しょうか。
  医師の知るとおり,人は口を通してでも静脈を通してでも養分を取り入れるこ
 とができます。また,ある種の薬はいろいろな方法で投与することができます。
 例えば,ある種の抗生物質は錠剤の形で経口的に服用することができ,また人の
 筋肉や循環系に(静脈を経て)注入することもできます。人がある抗生物質の錠
 剤を服用しましたが,危険なアレルギー反応が出たために,今後はその錠剤を避
 けるように警告されたとしましょう。医師によるその警告を,その薬を錠剤の形
 で服用することはできないが,血流の中に注入するのは差し支えない,という意
 味に解釈するのは道理にかなっているでしょうか。もとよりそうではありません。
 肝心な点は,どこから投与するかではなく,その抗生物質を全く避けるようにと
 いうことです。同様に,クリスチャンは『血を避け』なければならないという命
 令も,口を通してであれ,血流中に直接であれ,体の中に血を取り入れることを
 すべて包含しています。
  このことが,エホバの証人にとってどれほど重要かについて,また,献血をす
 る側に対する私個人の意見等については,この後の関連発言で取り上げたいと思
 います。
                        From “Sheep”

#0009 sci1082  8812141058

 アダムのりんごの話題が思わぬ(というか当然というか)方向に発展しているよう
ですね。ROMしていたのですが、水の循環あたりから、<あれれ?>と感ずること
があったので、火中の栗を覚悟で乱入させて頂きます。
 Sheepさんが、聖書の徒であるならば、私の方は科学の使徒の末席を汚すもの
でありまして、いささか申し上げることがございます。
 そもそも科学とはなにかと言えば、自然を見きわめるためのひとつの方法でありま
して、その元をたどれば、ギリシャの哲学者あたりにつきあたります。中世のヨーロ
ッパあたりでは、自然を知るというのは、神の全知に近づくことと同義でありまして、
「多分今よりも神に近かったであろう」昔の人の書物を読み漁り、それに都合のよい
解釈をあたえることしか考えつかなかったのです。ところが、その神に近かった人た
ち(ギリシャの哲学者)がとっていた方法が、観察、仮説、検証といった方法をとっ
ていたことに気付くにおよんで、近世の科学が始まるわけです。
 私が申し上げたいのは、あなたがたのやっていることは、「解釈」であって、科学
以前のことであるということです。
例えば
>   「川はすべて海に注ぐが,海はいまだ満ちてはいない。
>            水は川が始まった所に戻り,再びそれを繰り返す」
>                         ─伝道の書 1章7節─
という言葉の中に、現在の科学で知られているような、蒸発、降雨という水の循環が
述べられていると解釈されるのも結構でしょう。でも、同じ文章から、人には見えな
い神の使い(または悪魔)がいて、それが一生懸命バケツに水を汲んで運んでいるの
だ、(だから神または悪魔を恐れよ)と解釈することもできるでしょう。
また
>  「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の
>  場合のように,わたしはそれをすべてあなた方に与える。ただし,その魂すなわ
>  ちその血をともなう肉は食べてはならない」─創世記9章3,4節
という、言葉を解釈すれば、輸血は拒否すべきなのかもしれない。けれども、輸血を
すれば生命をとりとめる(そのために輸血をした人の命を奪うわけではない)という
ことを知っている、医師の良心を傷つけていることには、思いが及ばないのでしょう
か。聖書にはもっと大切な、人間として守るべきことも書かれているはずです。上の
文は、衛生状況の悪かった当時の知恵として、「血のしたたっているような生肉を食
べると病気になるかもしれないぞ」と言っているのだと、解釈もできると思いますが。
 このように書いてきますと、科学と宗教は対立すべきものと考えていると、感じる
かもしれませんが、私個人としては、宗教の効能というものも、おおいに認めている
ものです。だいたい科学の法則などというものは、いろんな「条件」のもとでだけな
りたつものでして、人間の営みのような複雑怪奇なものについては、なかなか一筋縄
ではいかないものです。宗教に、心の平安を見いだすのは、当然のことと思います。
お互いに、その役割を認め合っていくことではないでしょうか。
--Tokio

#0010 sci1598  8812182147

  Tokio さん、乱入歓迎します。ほかの方も遠慮しないで参加してください。
  私<猫男>がクリスチャンの両親のもとで10年間も日曜学校に通いながら、つ
いに洗礼を受けなかったばかりかその後教会へも足を向けていないのは、第一に私
の心の貧しさがあげられるにしても、「難しいことは解らなくても、信じていれば
救われる」という考え方について行けなかったからです。小学生の時、アダムの子
供達の結婚相手はどこから現れたのか、との質問を笑ってごまかされて以来募った
不信感の結果でしょう(聖書に対してでなく、教会に対してです)。
  ものごとを科学的に考える場合に必要なのが、観察・仮説・検証ですね。つまり、
「事実でないことを信じない」「だまされない」ためであります。「イワシの頭も
信心から」と言うように、それで幸福になれる人に対して批判をする気はありませ
んが、それは所詮その程度の宗教でしかないのです。私がそれでも聖書を手放さな
いのは、「科学的」に読んでも十分に耐えうる書物だと思うからです(エホバの証
人の人達はそういった読みかたをしていると思っています。それだけに輸血拒否が
腑に落ちないのです)。私には聖書の内容を、誰もが納得できるように科学的に説
明することはできません。けれども科学の分野で新しい発見がある毎に、聖書の記
述が誤りでなかったことを確認しています。
  初期の輸血は動物の血液を用いたり、血液型の存在を知らなかったために多くの
犠牲者をだしました。現在でも輸血によるエイズや肝炎の感染の例があります。そ
の意味で輸血を恐れると言うのなら理解できます。しかし、「輸血したら、もう自
分の子供ではない」とまで言わせるものは一体何なのでしょう。そんなことまで聖
書に書いてあるとは思いません。アブラハムが神の命令で、その子イサクをいけに
えとして殺そうとしたのとは明らかな相違があります。
  私は正常な判断力を持つ成人が、自らの意志で輸血を拒否することまで否定はし
ません。しかし、自身の不勉強をさらすようで恥ずかしいのですが、輸血拒否の根
拠は創世記と使徒行伝の二カ所の記述だけなのでしょうか?  聖書は重要なことに
ついては何度も繰り返して述べています。それは聖書が、その目的から言ってクリ
スチャンだけのものでなくすべての人々のものである以上、解釈の相違などという
ことが起こらないようにするためでもあるからです。(その割には「アダムのリン
ゴ」の例が多いですが)
  これだけのことを書くのに、また休日を一日費やしてしまいました。聖書のこと
を何も知ってはいなかったことを痛感しています。でも、日曜学校に通っていた時
よりは真剣に聖書を読む気持ちになりました(信仰とは全く関係ないのですが)。
Sheepさん、ご迷惑でしょうが、もう少しおつきあい願えますか?
                                本当に 400ccの献血をしてきた<  猫  男  >

#0011 reader   8812232249


   Sheepです。長い間留守にして申し訳ありません。

   Tokioさんや, 猫男さんのレスポンスにお答えするまえに,私の前回のつづき
  を書かせてください。血を避けるということがエホバの証人にとってどれほど大
  切か,ということです。このことに関してはわたしの下手な弁明より,ものみの
  塔協会の出版物からの引用の方が要点をよく理解していただけると考えました。
  以下は『エホバの証人と血の問題』と題する出版物からの抜粋です。

              〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   自分の存在が創造者に,命の与え主に依存していることを認める人は,創造者
  の命令に従うことを決意すべきです。エホバの証人が堅く従っているのはそのよ
  うな立場です。証人たちは,血を避けることを命ずる神の律法に従うのが正しい
  ということを確信しています。彼らは個人的な気まぐれや,無意味な熱狂によっ
  てそうしているのではありません。彼らが,食物としてであれ輸血としてであれ,
  自分の体内に血を取り入れることを拒むのは,宇宙の最高の権威たる創造者へ
  の従順に根ざしているのです。
   したがって,エホバの証人にとって,血の問題は,クリスチャンとして生きる
  その生活の最も基本的な原則のかかわる問題となっています。創造者なる神に対
  する関係がそこにかかっています。さらに彼らは,詩編作者の述べた次の言葉を
  心から信じています。「エホバの司法上の定めは真実であり,ことごとく義にか
  なっていることが明らかになった。……それを守ることには大きな報いがある」

  ─詩編19編9,11節。
   物事の短期的な結果しか見ない人々は,血に関する神の律法に従うことに果た
  して「報い」があるのだろうかといぶかるかもしれません。しかしエホバの証人
  は,創造者の指示に服することが自分たちの永続的な福祉になることを確信して
  います。
   初期のクリスチャンたちも同様に考えました。歴史に示される通り,神に対す
  る彼らの従順は,時には極限まで試みられました。ローマ帝国において,彼らに
  対しては,偶像礼拝行為をするように,あるいは不道徳行為に携わるようにとの
  圧力が加えられました。それに応じないなら,ローマの闘技場に投げ込まれて獰
  猛な野獣に引き裂かれることにもなりました。でもそれらクリスチャンたちは自
  分の信仰を堅く守りました。神に従い続けたのです。
   それにどのような事が伴ったかを考えてください。初期クリスチャンで子供を
  持つ人は,神の律法を堅く守るためにその子供を死に至らせることさえあり得ま
  した。それでも,歴史から分かる通り,それらのクリスチャンは,恐れたり信仰
  を失ったりして,神に対し,また自分が従って生きる原則に対して背を向けるこ
  とはありませんでした。彼らはイエスの言葉を信じました。「わたしは復活であ
  り,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生き返るのです」
  (ヨハネ11章25節)こうして,当座の損失を目にしても,それらクリスチャ
  ンたちは,偶像に犠牲としてささげられた物と,淫行と,血とを避けるようにと
  の使徒たちの布告に従い通しました。彼らにとって神への忠実にはそれだけの意
  味がありました。
   今日,エホバの証人にとっても同じことが言えます。彼らは,自分のため,ま
  た自分の子供達のために崇拝に関することを自ら決定する道徳上の務めが当然あ
  ると考えています。それゆえにエホバの証人は,医師,病院管理者,あるいは判
  事など,だれか他の人にこうした道徳上の決定をしてもらうことを求めません。
  神に対する自分たちの責任をだれか他の人に担ってもらうことを望まないのです。
  実際,他の人はだれもそれを行ない得ないのです。それは,神また生命の授与
  者に対するクリスチャン各自の責任です。

       (『エホバの証人と血の問題』1977年 19,20頁)

#0012 sci1509  8812242153

 そこんとこがよくわからんのです.   >sheep様
>エホバの証人は,医師,病院管理者,あるいは判事など,だれか他
>の人にこうした道徳上の決定をしてもらうことを求めません。神に
>対する自分たちの責任をだれか他の人に担ってもらうことを望まな
>いのです。(略)それは,神また生命の授与者に対するクリスチャ
>ン各自の責任です。
 これほどに立派な理念を持つ宗派が何故敢えて我が子を死に至らしめることを是と
するのでしょうか.幼いとはいえ子どもは独立した人格を持っています.実の親とい
えども神または生命の授与者の前では「他の人」ではないでしょうか.
                             TAKA

#0013 sci1598  8812250052

  クリスマスイブですね。クリスマスにまつわる話題をいくつか集めてみました。
  イエスの誕生はマタイ・ルカ両福音書の記述から紀元前7年から4年の間と言わ
れていますが月日については全く不明で、空に現れたとされる明るく輝く星を木星
と土星の会合とする説や、70日間輝き続けた新星説などから10月や春先が唱え
られていますが、いずれにしても12月はユダヤは雨季で聖書に記された状況と一
致しないとされています。
  紀元200年頃、5月20日におこなわれた最初の降誕祝日がおよそ100年後
に12月25日になったのは、新しい生活と活動を準備するときとして多くの民族
に共通して行われていた冬至の祭りを受け継いだものと考えられます。
  この祭りは南欧では年に一度の乱痴気騒ぎだったそうで、クリスチャンでない日
本人が大騒ぎするのもこのあたりからきているのかもしれません。また北欧神話で
は12月25日から1月6日まで神々が地上に現れて活動すると信じられていまし
たし、クリスマスツリーはやはり北欧神話をヒントにしてできたものです。モミの
木に飾ってあるのはキリストへのささげものなんですね。
  一方、キリストを救い主とは認めず今なお救い主の出現を待ち望んでいるユダヤ
教徒たちは同じ時期にハヌカ(奉納の日)祭りを祝うそうです。
  書いているうちに25日になってしまいましたが、当時は日没から一日を数えた
そうですからまだイブです。
                                  クリスマスイブに愛をこめて<  猫  男  >
                                             ↑
                                     一度書いてみたかった 

#0014 sci6421  9102090218

                           <キリスト生誕の日付>

   年表などには「紀元前4年(一説には6年)」などとなっていますね。

   何世紀にもわたって学者たちは、ユダヤ史家ヨセフスがヘロデ大王の死の前
 に生じたと述べている月食を基にイエスの生誕を西暦前5年もしくはそれ以前と
 みなしてきたそうです。

   しかし、米国ロサンゼルスのグリフィス天文台のジョン・モスリーは、近年
 の研究が「ヨセフスの述べている月食は・・・・・・西暦前4年の月食とは考えられな
 いことを明らかにする納得のいく証拠」を提出していると語っています。

   それでヨセフスが念頭に置いていたのは、西暦前1年に生じた二度の月食の
 いずれかだったと思われます。UPIの報道はそれを示して次のように伝えてい
 ます。

     「ヘロデが実際に死んだのは、一般に信じられている西暦前4年
    ではなく、西暦前1年のことである。イエスが誕生したときにヘロ
    デが生きていたことを新約聖書の記録は明らかにしているゆえ、こ
    の問題は非常に重要である。」

   また同通信社によると「イエスの誕生は[これまでより遅い]西暦前3年も
 しくは西暦前2年の夏か初秋であることを研究の結果は示して」います。

   ルカの福音書の記録は、イエスがヨハネからバプテスマを受けた時、「およ
 そ三十歳」であったと述べています。ヨハネはその半年前の「ティベリウス・カ
 エサルの治世の第十五年」に業を開始しました。世俗の歴史によれば、それは西
 暦29年のことです。ですから、イエスの誕生を「西暦前2年の・・・・・・初秋」あ
 たりとすると、イエスのバプテスマが「およそ30歳」であったという記述と合
 致します。
                          (ルカ 1:34〜36、60、3:1、2、23)


 BC2 アキ                                          AD29     AD29 アキ
    |                                              |         |
----+----------------------------------------------+---------+-----------
     イ                                              ヨ         イ
    タエ                                            バハ       バエ
    ンス                                           カプネ      ウプス
    ジ                                           イテ        ケテ 3
    ョ                                            シス        ルス 0
    ウ                                            スマ         マ サ
                                                 ル            イ


                                                             遅過ぎた男


#0015 sci1598  9102242312


  ごめんなさーい。

>書いているうちに25日になってしまいましたが、当時は日没から一日を数えた
>そうですからまだイブです。

↑嘘です。日没で一日が終わるから書いている時、すでに25日でした。書きなが
ら「変だなー」とは思っていたけれど、まあいいやと。この間何度消そうと思った
ことか、でも一度書いたものを消すのはそれがどんなつまらない内容であっても、
自分に対して許せなかった。一度人目にさらしたものはどのような受け取りかたを
されても最後まで責任を取るべきだとも思った。レスポンスを付けられるのが怖か
った。イエスさま、お許し下さい。私も一生この十字架を背負って生きていきます。

と言うほどのことではないと思う(悔い改めていない)のですが、Ca.さん(で
すよね)お詳しいようで。色々教えてくださいね。練習コーナーのダニエル書の預
言もぜひ続きをお願いします。私はエゼキエル書の方が好きなのですが、それにつ
いてはいずれ機会を見て書きたいと思います(いいかげんなことを書くとまた、懺
悔しなくちゃならなくなる)。

                              あまりここへは来たくなかった  <  猫  男  >


#0016 sci6421  9102250320


                 猫男さん、気に止めていただけて嬉しいです。

             ダニエルもエゼキエルも同時代に生きた預言者ですね。

          ダニエルはバビロンの宮廷内で、エゼキエルはバビロニアいる

             ユダヤ人の流刑者に対して預言者として働きましたが。


          聖書の予言はダニエル書に限らずみなとても興味深いですね。

        私の知っていることで何かご関心を持つものがあればと思います。

                                    Ca.


#0017 sci6421  9103010223


    バビロンといえば、今日の私たちでもその成就を目にすることが出来
    る一つの予言があります。それは預言者イザヤが語ったその都市の滅びに
    関するものです。イザヤは西暦前8世紀にその予言を次のように語りまし
  た。

           「見よ、彼らに対してわたしはメディア人を奮い立たせる。

                    ・・・・バビロンは国々の中で最も麗しく、

                   カルデア人の誇りであり栄光であったが、

               神がソドムとゴモラを覆されたときのようになる。

                    もはや、だれもそこに宿ることはなく、

                   代々にわたってだれも住むことはない。」

                                        (イザヤ 13:17−20。)

    まずこの予言はそれから約200年後の西暦前539年に、メディア
  の軍勢を伴ったペルシャの支配者キュロスの襲撃によって成し遂げられま
  した。

    しかしバビロンが二度と「だれも住むことはない」という予告につい
  てはどうでしょうか。
    この点は西暦前539年にすぐに成就したわけではありませんでした
  が、たしかにそのとおりになりました。
    バビロンは、倒れた後にも度々反抗の拠点となりましたが、西暦前4
  78年、クセルクセスがこの都市を壊滅させました。西暦前4世紀の終わ
  り、アレクサンドロス大王はバビロンの再建を企てましたが、いくらも進
  まぬうちに天然痘によって死にました。それ以来、この都市は衰退の一途
  をたどり、今日では確かに廃墟の丘となっています。

    今世紀になってイラク政府はその都市の復元を試みました。それは観
  光用の見せ物にすぎませんが、それでもその計画はイラン・イラク戦争や
  今度の戦争のために度々中断させられてしまっています。今後も遺跡の復
  元どころではないでしょうね。(あるいは復元しようとしたから戦争に負
  けちゃったのかな?)

                                  Ca.